第二週 救いのみわざ

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
(コロサイの信徒への手紙1章13~14節)

「精読箇所」 ヨハネによる福音書第1章と、コロサイの信徒への手紙第1章。

今週の聖書精読は、イエスとはどんなお方か、イエスはどのようにして、私たちをお救いになるのか、という二点に絞られます。

命のことば

第一日

私たちの住んでいるこの世は、どこかが間違っています。毎日のように、戦争だとか、殺人だとか、貧困だとか、民族紛争だとか、搾取だとかのいやなニュースばかりが目や耳に飛び込んできます。また人間自身の内面では、孤独感、不安、無気力、倦怠感、疑惑、不信感、闘争、憎悪などを体験しています。神のお造りになったのは、決してこんな醜い世界ではなかったはずですし、また、こんな世界になることをお望みになったのでもなかったはずです。神は約束なさいました。

【終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。】
(ミカ書4章1~5節)

第二日

数多くの人々が、私たちに世直しの計画を提供してくれています。教育の改善、技術の練達、新しい政治形態、賢明な社会政策、効果ある医薬品等々・・・そしてそれらのすべてが、あたかも世直しの名案ででもあるかのように、次から次へと名乗りを上げます。それに加うるに、人間が考え出したさまざまな宗教、古い伝統的なものや新興宗教などが、世に希望をもたらすもののように説かれています。ある人々はキリストを抜きにしたキリスト教的倫理綱領だけで、事足りるなどとさえ主張しています。

しかし、それらの一切は人間の考えであり、人造の救済計画に過ぎません。唯一の永遠の真理を知らぬ限り、他の救済メッセージは一切空なるものです。

主は言われます。

【天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
   あなたたちの思いを、高く超えている。】
(イザヤ書55章9節)

第三日

私たちは、人間の考えや人間の力以上の何ものかを必要としています。私たちは神の英知と能力とを必要としているのです。私たちは今や、人間の力をはるかに超えた悪の力に直面しています。世の悪の背後には、私たちが到底太刀打ちできない強力な悪の知恵、悪霊の王国がひかえているのです。

それについてパウロの言葉を聞きましよう。

【わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。】
(エフェソの信徒への手紙6章12節)

第四日

世が必要としているものについての神の答えは、「イエス・キリスト」です。イエスは私たちを救い、悪霊の権力と王国から私たちを解放するために世に派遣されました。そこで、私たちは今もいつも、永遠に、新しい命に生きることができるようになったのです。

【マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」】
(ヨハネによる福音書11章21~27節)

第五日

私たちの自由は無償で得られたものではありません。私たちが解放されて自由の身となるためには、神の子イエスの命という身代金が必要だったのです。しかし神は、そのおん独り子を賜うほどに私たちを愛してくださいました。そして、イエスは喜んで私たちのために死んでくださったのです。

パウロは言っています。

【正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】
(ローマの信徒への手紙5章7~8節)

第六日

イエスはお亡くなりになり、そして死者の中から復活されました。こうして私たちは新しい命を得ることができました。もしもイエスが死んでくださらなかったら、私たちはいまだに罪と悪霊の権力から解き放たれてはいなかったでしょう。預言者イザヤはキリストについてこう言っています。

【彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
   わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
   主は彼に負わせられた。】
(イザヤ書53章4~6節)

第七日

イエスは死者の中からの復活によって、悪霊の支配を完全に打ち砕かれました。ですから、今、キリストは、暗闇の権力と悪の王国の枷から、あなたを解き放ってくださるのです。もしもあなたが古い命を脱ぎ棄てることを決心するなら、神は、新しい命であなたを包み、あますところなくあなたを満ち足らしてくださいます。

【御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。】
(コロサイの信徒への手紙1章13~14節)