【肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。】
(ローマの信徒への手紙8章6節)
【満たしの後】
あなたは、《聖霊による洗礼》の祈りを受けました。今までについぞ味わったこともない別種の喜びと平安・・・あなた自身の内面から、奔流のように湧き起こって来る賛美の思いに、全身を揺すぶられておられますか。だが、もしかすると、あなたは、泣いたり、異言で訳の分からぬことを口走ったりしたことは、狂気の沙汰だったのか・・・という醒めた思いで、多少は困惑し、気落ちしておられるかもしれません。あるいはまた、喜びと疑心、平安と混乱とが一緒くたになってあなたの心を締めつけているかもしれません。けれども、《聖霊による洗礼》とは、決してそのような感覚、感情に左右されるものではありません。
今日という日は、あなたにとって、全く思ってもみなかった新たな命の始まりです。あなたは自分自身を完全に主に委ねました。そして、あなたは聖霊によって満たしが授けられるようにと、真剣に祈りました。それならば、あなたは紛れもなく《聖霊による洗礼》を受けたのです。あなたは今、さまざまな感情に揺すぶられておられるかもしれません。しかし、明白に、現実に、あなたは新たな命の門出の第一歩を踏み出したのです。揺るぎない確信をもって、新しい霊的生活に出発しましょう。
ただ、念のために、次のことを考慮に入れておきましょう。あなたが《聖霊による洗礼》を受けた時、聖霊が全く新しい方法であなたを満たしてくださった・・・それは本当ですが、だからと言って、あなたはもう完全に、聖霊の掌中にあるとは言えないのです。あなたは聖霊によって刷新された命に、これからもますます成長と進歩とを遂げていかねばならないのです。しかし、聖霊が、今までとは全く違ったあり方で、あなたの中に臨在しておられることは、疑いもない事実です。
では、今までとは全く違ったあり方で・・・とはどういうことでしょうか? あなたはずっと以前に、あるいは最近かもしれませんが、とにかく既に、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けました。そしてその時、あなたは、確かに水と聖霊によって新たに生まれた・・・それは疑うべくもありません。その上、それから後で授けられた堅信の秘跡によっても、聖霊の賜物があなたに与えられたことも確かです。しかし、それにもかかわらずその時に、あなたが聖霊の賜物をすべて豊かに受けて、聖霊によって刷新された命を与えられたとは言い切れないのです。なぜなら、その時あなたは、自分の全てを完全にキリストのおん手に委ね、あますところなく自分を、明け渡すことができなかったかもしれないのです。
そういうわけですから、自分の一切を全面的にキリストに明け渡した今日、実に今日こそ、かつてあなたが洗礼・堅信の両秘跡によっても、受けることのできなかった満ちあふれる霊の賜物を、ついに受けられたと言えます。ですから《聖霊による洗礼》は、言ってみればあなたが既に受けたはずの洗礼・堅信の恩恵の(延べ払い)のようなものでもあります。
既にあなたの中に臨在しておられた聖霊が、今日こそあなたのうちにあって、完全に解放され、満ちあふれられるのです。聖霊は今、あなたの霊の命をご自分のお望みのままに、溶かし、導き、満たし、そして存分にお使いになるのです。
まさに今日は、その初日です。前述しましたように、あなたの刷新された命は、これから聖霊に満たされて、ぐんぐんと成長していかなければなりません。
ところで、聖霊があなたの中で、今までとは全く違った方法で働かれるように、悪霊もまた、今までとは違った異常な意気込みで、あなたを攻撃してくることを覚悟しなければなりません。あなたは、今や、霊の強者となったのですから、それだけ悪霊にとっては、危険極まりない強敵となったのです。イエスが受洗の後で、全然思いもよらなかった方法で、悪霊の攻撃をお受けになったと同様に、《聖霊による洗礼》を受けたあなたも、全く予期しないほどの激烈な戦いを悪霊から挑まれるでしょう。
まず悪霊の戦略は、次のように仕掛けて来ます。
「《聖霊による洗礼》なんてまやかしもんだ。そんなものは初めからないのだ。おまえは、何も受けちやいないんだ。それはお前の錯覚さ」と。この戦略に引っかかると、あなたは《聖霊による洗礼》なんて一種の錯覚だったのだと思い諦めて、すごすごともとの平凡な命へ戻ることになるのです。
また別の戦略は、全くこれとは正反対のタイプです。悪霊はあなたに語りかけます。
「おめでとう! よかったね。やっと《聖霊による洗礼》を受けたのだから、お前はもう卒業だよ。もう何も問題はないし、なにもしなくていいんだよ」と。そして祈りの分かち合いも、お互いの学び合いも、兄弟同士の助け合いも、そんな面倒なことをいつまでも続けることはないんだと、あなたに思いこませます。
どうぞ警戒してください。もしもあなたの心が、そんな声に少しでも耳をかそうとするなら、その時あなたは、転落の一歩手前に立っていると言ってもよいのです。
何も恐れることはありません。ただ単純に、謙遜に、神にすべてを委ねながら、一切の疑惑や不安を退けましょう。ただ、喜びと平安と神への賛美が、あなたの心にあふれるにまかせましょう。へりくだって神のみことばに耳を傾けましょう。聖霊によって刷新された生き方を、兄弟姉妹たちから学び取りましょう。あなたはまだほんの初心者であることを覚えましょう。
また、異言の賜物についても、あまり焦らないでください。あなたの口から異言がまだ流れ出なかったとしても、それはただ時間の問題に過ぎません。必ずしも《聖霊による洗礼》と同時に異言の賜物があるとは限らないからです。
あるいは、あなたの口からなにか異言らしいものが漏れ出ては来たものの、それが果たして異言と言えるものかどうか分からないとしても、どうぞこれから先、それを続けてください。もしも、真の異言の賜物であったのなら、それは次第に完成されて来るでしょう。もしもそれが、異言の賜物でなかったとしても、いつかそこから、異言が始まるきっかけとなるかもしれないからです。あなたの異言が、ただモゴモゴと口ごもるだけのように聞こえたとしても、やはりそれを続けてください。そのうちに、それは異言として豊かに伸び、深められていくに違いありません。
毎日、異言で神を賛美してください。日が経つにつれて、異言による賛美は、あなたにとって、なくてはならぬものに向上していくでしょう。
これからの二週間の聖霊セミナーは、今やあなたにとって、以前にもまして重要なものです。あなたは《聖霊による洗礼》を受けたばかりなのですから、刷新された命は、これからぐんぐん成長していくはずですし、悪霊も決して手をつかねて傍観しているわけではありません。もしも何か困難な事情が持ち上がるか、あなたの確信が少しでもぐらついたりするなら、悪霊はこの時とばかり、あなたの弱みにつけ込んで、兄弟たちの集いから、あなたを切り離そうと躍起になることでしょう。ですから、次の二週間のセミナーには、出ても出なくてもよいなどという悪霊の口車に、どんなことがあっても乗せられぬように気をつけてください。
何度も繰り返しますが、神はあなたを愛しておられます。あなたが、しっかりと神に一致して生き抜くことは、神ご自身が、切ないほどに望んでおられるところです。幼子のようなすなおな気持ちで、聖霊に満たされた命を生きながら、神のみことばに耳を傾け、みことばを信じて、無条件につき従いましょう。あなたを手引きしてくださるのは、実に神ご自身なのです。
「精読箇所」 ヨハネによる福音書第14章と、使徒言行録第8章。
今週は、聖霊による新しい命と、私たちに働かれる神の力という二つの命題について黙想しましよう。
命のことば
第一日
《聖霊による洗礼》を皆と一緒に祈っていただいて、あなたの人生に何か変化が起こりました。前述しましたように、悪霊があなたを困惑に引きずり込もうと、躍起になることを覚悟せねばなりません。が同時に、神ご自身があなたとともにおられて、あなたを新しい命の高みに導いてくださるということをも確信しましよう。神は絶対に、誰にもひけを取る方ではありません。
ですから神は、あなたが神に信頼して勇敢に戦うことを望んでおられます。そして次のように言われます。
【思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。】
(ペトロの手紙一 5章7~9節)
第二日
神はあなたに、聖霊による新しい力を与えてくださいました。その力を存分に活用してください。今のあなたには、別に大した力がついたとは思われないかもしれませんし、また、まるで宝くじのように不確かなものに見えるかもしれません。けれども、それは確実にあなたのものです。充分に使いこなしてください。力というものは、使えば使うほど鍛えられて強化されるものなのです。神は、与えられた賜物に忠実な者を次にように誉めてくださいました。
【「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」】
(マタイによる福音書25章23節)
第三日
あなたが聖霊とともに生きるなら、あなたの中で聖霊ご自身が祈ってくださいます。一日中、できるだけしばしば、あなたの中で聖霊がお祈りになれるように時間を作ってください。すると、聖霊は、時にはあなたのことば(日本語)で、そして時には、あなたに与えられた新しいことば(異言)でお祈りになるでしょう。その新しいことばが、ただ数個の音節から成る単純なことばであったとしても、また、果たしてこれが異言と言えるものかどうかと、危ぶまれるような代物であったとしても、聖霊があなたの口を用いて、現に祈っておられるのです。あなたの舌を聖霊にお任せしてください。すなおに、それを日毎続けることによって、異言の賜物があなたの中で完成されていくのです。神のみことばが私たちを勇気づけてくれます。
【どのような時にも、《霊》に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。】
(エフェソの信徒への手紙6章18節)
第四日
常々、あなたの頭の中で、主イエスのことや聖霊のみわざを思い浮かべるように努めなさい。主のことを考え、また主が語ってくださった命のことばを黙想しなさい。そして主が、この世でどのように生活されたかを、深く理解しようと努力しなさい。こうして神のみ教えが、あなたのすべての考え方の基盤となるなら、あなたは間違いなく、永遠の命と平安とを手に入れることができます。神の約束に、耳を傾けましよう。
【肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。】
(ローマの信徒への手紙8章6節)
第五日
神は確かに、あなたにいろいろな霊能(カリスマ)を授けようとしておられます。それは、もっともっと効果ある方法で、神に奉仕できる力をあなたに与えたいと望んでおられるからです。しかし、また神は、キリスト者としての命の目標が、神と人とに対する無私の愛であることを、あなたに充分悟らせたいとも望んでおられます。なぜなら、実はそこにこそ、キリスト者としてのあなたの一切の努力の中心がおかれなければならないからです。
主はパウロの口を通して、こう言われます。
【愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。】
(コリントの信徒への手紙一 14章1節)
第六日
あなたが本当に、聖霊のものとなって、高い霊性に生きる人であるかどうかということを、どのようにして見分ければよいのでしょうか? ともすると私たちは、誰かが種々の霊能に恵まれていればいるほど、それだけ高い霊性に生きていると思いがちですが、霊能の有無は決してその人の霊性の高さを判断するバロメーターではありません。私たちが聖霊に満たされた霊的な人間となるためには、聖霊の実を豊かに結ばなければならないのです。聖霊の実とは、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制などです。
コリントの信徒に宛てたパウロのことばを、神の警告のみことばとして受け止めましょう。
【兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。】
(コリントの信徒への手紙一 3章1~3節)
第七日
神は、私たちを天国に招いて、神とともに永遠に生きる限りない喜びにあずからせようと望んでおられます。この世では、さまざまな試練や苦しみがつきまといますが、私たちが受ける永遠の栄光を考えれば、それらは全く物の数ではありません。聖霊の賜物は、この来たるべき栄光の最初の保証なのです。
【わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。・・・わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。・・・わたしたちを、このようにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として《霊》を与えてくださったのです。】
(コリントの信徒への手紙二 4章17節、5章2、4~5節)